みんな、みんなありがとう

少し長いですが、先日の難治性がんキャンペーンのとき話したことをここにアップします。
お暇な方だけお付き合いください(笑)


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とても古い話で恐縮なのですが、私が卵巣がんと告知されたのは1996年のことです。私の場合は痛みが先行しました。まず受診したのは整形外科、そして内科。どちらも異常なしと言われて、最後に行った婦人科で子宮内膜症の診断をもらいました。これもなかなか難しい病気なのですが、三か月ほどたってもまったく改善されず、それどころか私は衰弱していきました。その後行った検査で腹部に何かある、手術が必要と言われ、私は転院を決めました。信頼関係を結ぶことができなかったのです。このとき、私は10キロくらい体重を落としていました。痛みは鎮痛剤でつなぎ、寝込むことが多くなっていましたので、正直、もう長くは生きられないのかもしれないと思うこともありました。

転院先の病院はとても混んでいて、検査は一か月後と言われました。全身症状がつらかったこともあって、ある日思い切って電話をしてみると、なんとその日にキャンセルが出ていました。夫が仕事を早退してくれて病院へ向かい、一週間後、やはり手術が必要、内膜症の薬はもう使わなくてもいいと言われました。このとき、次女は小学校三年生になったばかり、入院の話をすると泣きました。手術を受けて、きっと元気になって帰ってくるからと言うと小さくうなずきました。

入院後受けた検査で、思いがけず甲状腺機能亢進症という病気が発見されました。それもかなり重症だったそうです。休んでいても脈拍が100以上打っていて、どんどん痩せて行ったのもそのせいだったようです。こちらで命を落としても不思議ではなかったそうですが、もしかしたら、私はがんではなく、この病気で大変だったのかしらと期待する思いもありました。

手術は三日後、逆療法というものでしょうか、ヨードを飲みました。ぎりぎりゴーサインが出たものの、心臓に負担がかかっていましたので、最初の手術は二時間がタイムリミット、片側卵巣のみ摘出となりました。わずかな期待ははずれ、組織検査の結果は悪性。私の場合はもう一度手術する必要があると言われました。手術後、抗がん剤治療を受けて、その後、また手術、そしてさらに抗がん剤。それまで私が持っていたわずかな知識では想像をはるかに超えることでした。この時期、がんと闘うなということも話題になっていました。

いきなりフルマラソンに出た心境でしたが、そんな私を支えてくれたのは家族と、友人、そして入院仲間でした。なんと言ってもがん一年生。それまで別世界だと思っていたところへ飛び込んだのですから、いっしょに立ち向かう仲間がいる。みんなで元気になりたいと思うだけで、ずいぶん気持ちが違うのです。病気のことばかりではなく、家族のこと、それまで生きてきた自分のこと、本当に色々な話をしました。

何度も逃げ出したいと思って迎えた二度目の手術の日、私の前に緊急患者さんが入り、ドクターが受けてしまいました。ようやく呼ばれた手術室の前で、ドクターは謝りながら「いやあ疲れたな。ドリンクでも飲むか」とにやり、泣きたい気持ちだった私も思わず笑ってしまったように思います。ドクターはものすごくがんばって手術してくれました。頭から湯気が上がるような状態で回診に回り、きっと無事に終わったと言ってくれたんでしょうね。年齢が近くて仲良くしていたYちゃんはありがとうございますと頭を下げてくれたそうです。

術後は回復に何倍もの時間がかかりました。少し落ち着いてきたある日、退院を前にしたYちゃんが重い口を開いて、面談の内容を話してくれました。最初の手術がとてもうまく行き、二度目のときはがん細胞が検出されなかった。再発に関しても80パーセントは大丈夫と言われたそうです。このとき、私は素直に祝福してあげることができませんでした。すっかり動揺してしまって良かったねと言っても言葉が浮くのです。こんなにうれしいことなのに、彼女は私たちのことを考えてつらい思いをしていました。

何をやっているんだろう。その夜は眠れませんでした。翌朝、すっかり退院の準備が整ったベッドに二人座り、私は言いました。おめでとう、きっと後に続くからね。80点は無理かもしれないけれど、60点くらいなら私にも取れるかもしれない。娘の中間テストはもっと悪かったのよ。そういうと、Yちゃんは笑いながら涙をぽろぽろと流しました。この日のことは今も忘れることができません。

私は予想通り60点で退院しました。退院後はまた不安が募り、仲間たちと何度も電話で話し、受診の日を合わせて、いっしょに食事もしました。どうもおなかが膨れているような気がする。腹水がたまり始めているんだろうか。いやいやただのデブとドクターに言われたよ。卵巣を切除すると代謝機能が落ちるみたい。そんな話もしましたね。卵巣欠落障害もけっこう大変でしたが、そのつらさをわかってくれたのも、やはり仲間でした。

そして、このとき考えたのは、二年という時間でした。もちろん卵巣がんのことだけを考えてのことですが、ドクターは見える限りのがんを取ったというので、二年は生きていられるだろう。心残りがなくなるなんてことはありえないけれど、やりたいことは何だろう。まずは家族と旅行することでした。子供たちは小学生と中学生、いっしょに過ごす思い出を少しでも作りたい。休職中のことでしたが、申し訳ないなんて考えている場合ではありませんでした。

次に考えたのは、本を書きたいということでした。自分の生きた証しを残したい。そうだ、仲間と過ごした日々のことを書こう。もちろん自費出版、友人のだんな様が出版関係の仕事をされていて、力を貸してくれました。タイトルは立ちどまるとき。題字は夫が書いてくれました。正直、書くのがつらいこともたくさんありましたが、本が出来上がったとき、発病から二年が過ぎていました。ドクターにも進呈したところ、きっとおれの悪口を書いてあるに違いないなんて言って、看護師さんに先に読ませたそうです。

3年を過ぎてから、Yちゃんがまさかの再発。そのときすでにかけがえのない存在だった仲間たちが、次々に旅立ちました。
一度は仕事に復帰したのですが、私は精神的バランスを崩し退職する道を選びました。そして、それからアスパラの会に入り、リレー・フォー・ライフに出会いました。昨年春からは、砂川でスタートしたがんサロンのお手伝いをしています。心の荷物をほんの少し軽くする場所、集まったメンバーはみんな暖かく、参加する人たちもいつの間にか同じようなスタンスを持ってくれる方が多くなりました。地域医療連携室の方たちは素晴らしいパートナー、私も毎月の開催を楽しみにしています。

もう二度と手術したくないと思っていましたが、二年前、頭に未破裂動脈瘤が見つかってクリップ手術を受けました。開頭してみるととても大変な状態で、モニターで見ていた人は、手術が続行されることに驚いたそうです。中止してしまうと間違いなく破裂してくも膜下出血を起こすことがわかっていましたので、ドクターは懸命に処置してくれました。また命を助けてもらったように思います。

その後、夫が鬱と診断されました。長い間、心の疲れがたまってのことだったと思います。以前の趣味はスキーとゴルフ、まさに元気で留守だったのですが、昨年春、休職してからは、外にも出たがりませんでした。このとき、思い切って、札幌ドームへ行こうと誘いました。卵巣がんになったとき、共通の友人が、夫に、「今頑張るのはあなたの方だよ」と言ってくれました。今度は私が頑張る番でした。昨年はファイターズがリーグ優勝までしてくれて、本当に元気をもらいました。一年ゆっくり休んだこともよかったのだと思います。夫はこの春から復職することができました。

がんになってから本当にたくさんのことがあり、そしてたくさんの友を見送りました。どんなにかもっと生きたかっただろう、もっともっとやりたいことがあっただろうと思います。友人たちの分まで生きるなどとはとても考えることができません。生きているのがつらいと思ったこともありましたが、ホームページなどで知り合った仲間たちが、「元気でいる人を探していた。生きていてくれるだけでいい。後についていくから」と言ってくれました。厳しい状況のある卵巣がんだからこそだったと思います。

旅立った友人たちがキラキラ生きていたことは今も心の中に息づいています。きっと空の上からも応援してくれている。たくさんの方に支えられて、今日、ここにいることができたことに心から感謝しています。
つたない話でしたが、ご清聴、ありがとうございました。


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これからも、卵巣がん、早期発見、そして治療法が大きく前進しますよう、
心から願います。
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Author:トマト
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